前回は『太陽の法』の意義について書きましたが、(あなたは何のために生まれ、宇宙はどのように誕生したのか?その答えの書かれた『太陽の法』)さらにみなさまが興味を持っていただくために、内容の一部についてこれから取り上げて何度か書いてみたいと思います。
『太陽の法』第一章、3「存在と時間」という話があります
少々難しい内容となっていますが、この世の在りとしあらゆるものは変転するという事です。
人間もあらゆつ動物や植物も、鉱物も天体に至るまで、あらゆるものは誕生の時があれば、成長し、衰退し、そして消滅の時を迎えます。
すべての存在は、そのままの姿を永遠に維持していく事は出来ないと教えられています。
これを生々流転の法則と教えられています。
実はこれはお釈迦様の存在論でもあり、諸行無常と言われる理と同様な事を言っています。
仏陀であるお釈迦様も、この世の物はすべて移ろい行くものであるとお説きになられ、現状の仏陀も同じ事を説かれます。
すべての存在が移ろい行くものであると言うのは、存在の中に時間が内包されているという事でもあります。
ここらへんは難しい話になるため、興味のある方は直接『太陽の法』を読まれてください。
この世のあらゆるものが移ろい行き、変転して行くという事は、実は逆に言えば、その背後には不変のものが存在するという事でもあります。
私たちの肉体も、生まれてからずっと同じ物質から出来ているのではなく、分子レベルでは絶えず入れ変わております
難しい言葉では「シェーンハイマーの動的平衡論」と言います
私たちが口にする食べ物は、栄養源になって排出されるだけではなく、分子レベルで見ると、体内の分子は取り込んだ食べ物の分子と入れ替わっているのです。
昨日と今日は同じ自分だと思っていても、実は絶えず変わっているのが現実です。
言ってみれば私たちは川の流れのようなものであり、昔から同じ川の名前がついてはいますが、そこに流れる水は、以前と今とでは違っているでしょう。
それくらい激しく身体も絶えず入れ替わっているのです。
鴨長明の『方丈記』の冒頭の有名な文があります。
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし」
これは私たちの人体にも言えるという事です。
このように過去と入れ替わった私たちは、はたして過去と同じ人間なのでしょうか?
おそらく多くの人は生まれた時から自分は自分だと思っているはずです。
そこには肉体を超えて”自分”という統一する何かがあるとしか言えないでしょう。
もし唯物論的に”肉体こそ我だ”と思っているのなら、数年すれば全部入れ替わる我など、すぐに自分ではなくなっているという事になります。
つまり生々流転の法則はこの世のものは絶えず流転すると説いていますが、同時に変わらないもの、不変のものがその背後にある事を説いているのです。
変転する人間の肉体の中にあって、永遠に変わらないものとは、それが魂なのです。
魂はずっと同じであり、生まれた時から死ぬ時まで、私は私の魂のままです。
生々流転の法則は、この世のものは移ろい行くものだと教えていますが、同時にこの世を超えた存在があり、それが肉体に宿る魂であり、魂は不変であると説きます。
この魂とは思考するエネルギー体だと言えます。
物質の背後にエネルギーがあって、働きを生むのです。
そして物理法則でも『エネルギー保存の法則』があるように、この思考するエネルギーそのものは消滅する事はありません。
物質はやがて滅びますが、エネルギーは決して消滅する事は無いのです。
別な形に変転する事はあっても、エネルギーは減ることも滅する事もなく、永遠に存在します。
生々流転の法則とは、この世が移ろい行くものであると説かれると共に、魂の存在を証明する教えでもあります。
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