2021年3月23日火曜日

救世主の証明

人間は転生を繰り返し、この世に何度も生まれ変わってきます。

幾転生の生まれ変わりのなかで、私たちが救世主の降臨される時に、降臨される地に生まれ合わせる事は至難の出来事なのです。


救世主と共に生きる。それはまさに奇跡の体験でもあります。

この奇跡の時、奇跡の地に生まれ変わっても、救世主の降臨に気づかない人が多くいます。

イエスの誕生したユダヤの地に、仏陀の降臨したインドの地に生まれていた人は多いはずです。

しかし、救世主が同時代に降臨し、教えを説かれている事に気づかない人が大勢いました。

彼らは奇跡の時に生きながら、平凡な人生を選択し生きていったのです。

その後悔はいかばかりでしょう。

なかにはイエスと共に生きながら、彼をあざ笑い、否定した者たちも多くいます。

どうしてでしょうか?

それは肉体の目で見れば、「ナザレという田舎に生まれた大工の息子が、まさか救世主であるはずはない」と思ってしまいます。

現代でも日本の田舎から出てきた普通の家庭の子が、まさか救世主であるなど信じられないと否定するようなものです。

しかし、救世主と同時代に生きながら、その存在を知らず、あるいは否定して生きるのは何とも悲しい事です。

救世主降臨の地に生まれ合わせ、その真実を知ることがどれほど幸いであり、福音であるかを私たちは知らなくてはならないのではないでしょうか?

救世主と共に生き、救世主を受け入れて生きる事は、幾万の転生で得られる魂の宝を遥かに超える価値を秘めているはずです。

そうした貴重な体験を逃さないためにも、救世主が登場し、その存在を認めなくてはなりません。

と言っても、多くの宗教が自分たちこそ正しく、他は間違っていると説くところが多いです。

そのため何が正しいのかと信じられなくなる人も多くいる事でしょう。

なかには確かに間違った宗教もあり、人々を間違った方向に導いているように見えます。

そこで、救世主とはどのような存在なのか?その地上での特徴が分かれば、判断を誤ることも少なくなると思いますので、救世主の証明について述べてみたいと思います。

すでに予言として仏教キリスト教ノストラダムスについて取り上げました。

さらに救世主が降臨する際に起こるであろう降臨運動についても述べましたので、おおよその検討はつくはずです。

過去の予言や降臨運動などから、すでに生まれている救世主の特徴が分かるはずです。

今回は、救世主とされるものの証明となるものについてその他について述べてみたいと思います。

まず、救世主が救世主であるという事を現わすには、ご自身がその事を宣言し、明言されるという事があります。

救世主は自らを救世主と宣言し、その事を証しするのです。

かつてのイエスも仏陀もそうでした。

他人からそう言われたからではなく、自ら救世主、あるいは仏陀と宣言したのです。

救世主が降臨されるなら、もっと明らかに分かりやすくして欲しいという一般人の考えもあると思います。

たとえば、雲の上に大きなひげを生やした神様が現れて、「わしこそが救世主である」と宣言されるなら、そのような超常的な現れ方をすれば、誰も否定できずに受け入れられると考えるかも知れません。

ですが、過去の歴史を見ても、神様はそうなされず、救世主は普通の人のもとに生まれ、やがて成長して自らを救世主と宣言なされていくのです。

まずは本人が救世主だという自覚を持ち、それを世の人々に訴えていくというスタイルを取ります。

ただそうなるといろんな宗教で教祖が言っているのではないかと思われるかもしれません。

「我こそは救世主である」と言って、人々を信じさせようとする人が多くいるように思われます。

確かに一部はいますが、実際に高らかにそう宣言する人はごく僅かでしょう。

「自分が救世主である」、「再誕の仏陀である」と宣言される人はごく限られたものです。

たいていはそこまでは述べておらず、僭称するくらいで、世間一般に伝えるには至っていないでしょう。

やはり自覚や覚悟の問題もありますし、世間からの風当たりもありますので、なかなか宣言する者もいないという事です。

ですので自らを高らかに救世主と宣言できるものに、実際に救世主が存在する可能性が高いわけです。

もちろんすぐには人々は受け入れないでしょうが、やがて時間と共にその偉大さが分かるようになり、受け入れる人も増えていくという現象が起こります。

さらに今回の救世主の降臨は、イエスが天の父と呼んだ存在であり、東洋では仏陀と呼ばれれる存在の再誕だと検証しました。

その場合の特徴として、仏教を学ぶと分かるものがあります。

まず、仏教の基本的な教えは四諦八正道と言われるものです。

この世の苦しみから離れ、静寂の悟りの境地に到達するための教えです。

この世は苦の世界だと悟り、その苦しみから逃れる方法を説かれたわけです。

つまり仏陀の教えとは、人間の不幸の原因を科学し、究明していく、不幸の科学と呼べるものなのです。

代表的な執着を手放す教えも、この世の物に執着するがゆえに、苦しみを生ずるからであり、その苦の原因を取り除くことで、平安な心境を手に入れようとするものです。

当時のインドは二千五百年前であり、日本で言えば縄文時代ですから、それほど社会が発展しているわけでもなく、いろんな苦しみが多かったと思います。

貧困で求めても得られないものが多かったり(求不得苦)、病院も無くて満足な治療も受けられず(病苦)、年をとっても福祉が無く(老苦)、諸々の苦しみのもとが多く、それを取り除くことも難しかったと思います。

もしも仏陀が現在に生まれ、この高度に発展した社会に生きて教えを説くならば、もっと積極的でポジティブな教えを説くはずです。

かつてのインドの時のように、消極的に不幸を取り除こうとする不幸の科学ではなく、もっと積極的な、幸福になるための教え、幸福の科学を説かれるはずです。

まかり間違っても、再誕の仏陀が念仏やお題目を説かれる事はありません。

それは仏陀が直接説かれた教えを探求すればわかる事です。

仏陀が再誕なされたなら、人々の幸福のために、積極的に幸福になるための教えを説かれていかれるでしょう。

その事からも、幸福の科学を創設された大川隆法先生が、再誕の仏陀であることがわかるはずです。

ちなみに大川先生は、『仏陀再誕』という映画を全国上映されたり、ご自身が救世主と仏陀を兼ね備えた地球真であることを高らかに宣言なされています。

さらに仏教を起こされたお釈迦様の特徴として、約80歳まで教えを説かれて、それが八万四千の法門として膨大な教えが残されています。

かつてこれほど数々の教えを説き、それが後世に残された方は他にいません。

つまり再誕の仏陀の特徴として、膨大な量の教えを説かれるはずだという事が類推されます。

大川隆法先生は、すでに三千回を超える説法をされ、書籍も二千八百冊を超えています。

これだけ膨大な教えを説かれること自体が、仏陀である証明でしょう。

大川先生は、講演では原稿も用意せずに、事前に題名だけ決めてその場で話されています。

それが後に書籍になって販売できるほど充実した内容を毎回話されるのです。

にわかに信じがたい離れ業ですが、嘘やまやかしなどではなく、実際に過去からずっと先生はそのスタイルで説法されています。

普通の講演家ですと、何度か繰り返していると、次第にマンネリ化して、話す内容も同じになってくるものです。

毎回説法の内容が変わり、さらに高度な教えを説くなどは、到底普通の人が出来る技ではありません。

人類史上で唯一、同じような事をされたのが、お釈迦様なのです。

それこそが再誕の仏陀の証明でもあるでしょう。

さらに言うとするならば、その説かれる教えの広大さと深さにあります。

どれほど優れた法を説かれ、高度で奥深い法を説かれているかは、直接著書などを通じて学ばれるといいでしょう。

まずは基本書の「太陽の法」を読まれてみるのもいいでしょう。

あまり話が壮大なため、ついていくのが難しい人もいるかも知れませんが、法の奥深さや高度さがわかる書籍となっています。

真理への縁が深い人が読めば、すぐにその偉大さが感じ取れるものだと思います。

人の魂には幾転生のなかで真理との縁が近い魂と、遠い魂があるようで、縁が近い人の場合には、少し触れただけでそれが真理かどうかすぐにわかる人もいます。

普通の人ですとやはりそれほど深くは無いでしょうから、何度も触れて学びをしていくうちに次第に確信していく人もいます。

なかにはまったく真理を受け入れず、頭ごなしに否定したり、批判を加える人もいます。

イエスや仏陀在世中にもそうした人は数多いましたので、致し方ない事ではありますが、なるべく多くの人が真理に触れて、気づかれていくことを願います。


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