仏教を開かれたお釈迦様について、無我説を説いたのだから霊魂もあの世も無い唯物論を説いたのだとする盲説があります。
これについて大川隆法先生は『太陽の法』の書籍にある注釈(一章の最後に記載の注)で端的に指摘しています。
今回はそれを蛇足になるかと思いますが、もう少し詳しく考えて見たいと思います。
無我説(諸法無我)というのは、この世に存在するあらゆる事物は、因縁によって生じるものであって、不変の実体である我は存在しないという考え方を言います。
つまりこの世の物は仮に合わさって出来ているもので、いつかは消えてなくなるものであるとする考えです。
ですがこれは我が無いことが魂までも無いという事を意味するのではなく、この世の物はすべて実体がなく、いつかはバラバラになって失われるという事を意味しているのです。
たとえば肉体であっても、人間は肉体我を自分と思っていますが、いずれは死んでから火葬場で焼かれ、二酸化炭素と骨だけになってしまいます
住んでいた建物も、いつかは脆くなり、崩れて土にかえるでしょう
そのようにこの世の物は実体があるようでいても、いつかは分解されて無くなってしまいます。
お釈迦様の説かれた諸法無我が、そのように理解すべきものです。
それなのに、一部の仏教学者の中には、自分が唯物論者であるから、お釈迦様も同じように見て、仏教は唯物論だという者も現れます。
しかし、お釈迦様があの世や霊魂を信じていた事は、仏典を読めば明らかな事なのです。
パーリ語で書かれた、お釈迦様の言葉がもっとも正確に期されていると思われる原始仏典には梵天勧請がはっきりと書かれています。
お釈迦様はついに悟りを得られるのですが、はじめはその内容が深く微細で難しい内容であるため、とうてい一般の人には分からないだろうと思われて、教えを説くのに消極的だったのです。
しかしそこに梵天(ブラフマー)という神様が現れて、どうか教えを説いてくださいと懇願するのです。
「世尊よどうか教えをお説きください。世の中にはまだ汚れが少ない者もいて、彼らは教えが無ければ衰退してしまいますが、教えを聞けば理解する者となるでしょう」
このように悟りを開かれたお釈迦様の前に梵天が現れて、法を説くことを願われたため、お釈迦様は法を説かれるようになったと原始仏典にもあります。
あの世が無く、霊魂も無ければ、梵天などという存在もあろうはずがありません。
それだけ見ても、お釈迦様は霊魂を否定したとする説が誤りであることはわかるでしょう。
また同じく原始仏典のパーリ語経典には、『神々との対話』(Devatā-saṃyutta, デーヴァター・サンユッタ)や『悪魔との対話』( Māra-saṃyutta, マーラ・サンユッタ)などがあります。
あの世も無く、霊魂も存在しないのであれば、どうして神々や悪魔と対話が成り立つでしょう?
さらにお釈迦様は在家の信者の方にいわゆる次第説法をされています。
次第説法(ānupubbi-kathā)とは、施論(dāna-kathā),戒論(sīla-kathā),生天論(sagga-kathā)の三論に始まる説法のことです。
施論というのは、お布施をすることです。
教団に寄進したり、貧しい人々には財を施し、心の貧しい人には正しい心の在り方を施す事を進めます。
戒論とは戒めを守ることです。
具体的には五戒(pañcasīla)を守ることで、五戒は不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒の五つを言います。
不殺生戒(prāṇātipātāt prativirataḥ)、生き物を故意に殺してはならない。
不偸盗戒(adattādānāt prativirataḥ)、他人のものを盗んではならない。
不邪婬戒(kāma-mithyācārāt prativirataḥ) 、不道徳な性行為を行ってはならない。
不妄語戒(mṛṣāvādāt prativirataḥ)、嘘をついてはいけない。
不飲酒戒(surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ)、酒を飲んではならない。
これら五つの戒めを守ることを在家信者に説きます。
そして三番目に生天論が来ます。
施しを与え、戒を守った生活を送るなら、天界に富を積むこととなり、来世は天界(天国)に生まれ変わるとする説です。
善徳を積み重ねることで、天国に生まれ変わると在家信者に説いているのです。
霊魂が無いとすれば、来世に天界に生まれるなどと言う事もあるはずがありません。
もしも来世も無いと考えながら、次第説法をお釈迦様が説かれていたのなら、これは霊感商法などの詐欺商法をしていた事になります。
天国に行けると嘘をついて、在家信者から布施をせ占めていたのなら、これは立派な詐欺商法でしょう。
お釈迦様がそのような事をするはずがありません。
無霊魂説に立つのならば、お釈迦様は今で言えば詐欺商法を行っていたと言っているに等しい侮蔑なのです。
ですので仏教は無霊魂説だとする堕地獄の盲説は、断じて受け入れることが出来ません。
ちなみに、この三論で飽き足らない、もっと修行が進められると思われる人物には、四諦説が説かれています。
四諦八正道については、また機会がありましたら書いてみたいと思います。
これだけでも釈尊が霊界を肯定していた事実は分かると思いますが、他にもありますので、続きはまた次回にいたします。
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